2010年04月07日

Reputation Management 101

101という数字はどのような意味があるのでしょうか。Googleで101を検索すると「台北101」とか「育毛剤101」とか「101回目のプロポーズ」が出てきます(笑)。

英語の文章、特にアメリカのもので101が出てくると、何かの初歩や入門という意味で使われることがあります。これはアメリカの大学のカリキュラムで「科目名+番号」という名前の付け方をしているところが多く、その場合、入門編には101という番号が使われることが多いからです。このブログで前に紹介したSpanishPod101
http://www.spanishpod101.com/
もそのような意味があります。

ですから、ある事柄について、初歩の知識もない場合には、”Go back to 〜〜 101!”などと言われたりします。例えば、フランス語で、男なのに、”Je suis japonaise.” などといっておかまと間違えられたり、スペイン語の文法が英語のそれと似ているからといって英語の、”He is a student.” にあたるスペイン語が、”Él es un estudiante.”だなどと言う(正しくは、”Él es estudiante.” あるいは、”Es estudiante.”)ことをすると、”Go back to French 101.” とか、”Have you learned Spanish 101?” などと言われることになります。

1時間でもまともに習えば間違えようもないことを間違えてしまい、さらに恥の上塗りで、それを正しいと吹聴して回るようなことをするのは正気の沙汰とは思えませんが、世の中広いですから、そんなことをする者がもしかしたらいるかもしれません。こうした輩は避けるのが一番です。

そうした危険をおかす不安におびえつつも、ここでReputation Management 101と題した文章を書いてみることにしました。Reputation Managementというのは、日本語で言えば風評被害防止といったところでしょうか。現在のように、個人がネットで人物や製品についてあることないこと書いて公表することができるようになると、たとえ嘘のことでもそれが一人歩きすると大きな打撃を受けることになります。

それだけではありません。一見、好意的な意見であっても実はほめ殺しだったりひいきの引き倒しだったりすることがあり、それが露顕したりするとダメージは倍以上になります。このようなことの予防策としては、少なくともこれらの好意的な意見は自分とは全く関係ない者がやっているということを宣言しておくことが大事です。例えば、次のような文章はどうでしょうか。

この製品に関する好意的なレビュー(あるいは、否定的レビューに対するネガティブなコメントや役に立たないという投票、果ては否定的レビューをした者の別のレビューへの役に立たないという投票まで)は、当然のことですが、この製品の関係者やその家族、親兄弟などがやっているものではありません。当方の知らない、したがってコントロールが及ばない者たちが行う行為に関しては当方はまったく関与せず、たとえ、そうしたレビューがサクラやヨイショ、組織票のように見えたとしてもそれはこの製品を愛する人たちの純粋な気持ちのあらわれです。時には行き過ぎのようなことがあるかもしれませんが、それもこの製品に対する愛情のもたらすところでご寛恕ください。


まあ、このように書いて実際が違っていた場合のダメージはそれこそ取り返しがつきませんので、利用にあたってはご注意を(笑)。
posted by 杉田伸樹 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月26日

ネイティブスピーカーは非ネイティブスピーカーをほめる

ネイティブスピーカー(例えば英語のとしましょう)は非ネイティブスピーカーが英語を使うとどのような反応をするでしょうか。

私の経験では圧倒的な割合でほめられます。たとえ発音や言い回しが自分でいま一つかなと思っていても、うまいとかすばらしいとか言ってくれます。これはどうしてでしょう。

立場を逆にしてみればよく分かります。外国人が日本語をしゃべっていたらたとえ少し難があっても、それだけでもほめてあげたいと思いませんか?

あるいはわざわざ相手の間違いを指摘して気まずい思いをしたりするような面倒なことはしたくないからかもしれませんが。

ネイティブスピーカーがあまりほめない場合、その原因はいくつかの可能性があります。

まず最初は、間違っていたらそれを指摘することが義務的である場合です。例えば外国語を教える先生だったら、生徒が間違っていたら(どのように指摘するかやり方はいろいろですが)教えてあげるのは教師としての義務でしょう。それを放置することは自分のやるべきことを放棄していることにほかなりません。もちろん間違いを指摘するには、それがどうしておかしいかをきちんと説明できる能力がないとできません。これは単にネイティブスピーカーであるというだけでは備わらないものです。プロの語学教師というのはこのためにいるのです。

二つ目の可能性は、相手が「いやな奴」でどんなことであってもほめることなど絶対したくないという場合です。まあこのようなことになるのはかわいそうといえばかわいそうですが、人間社会ではよくあることでそれを止めることはできません。

三つ目は、使っている外国語が本当にひどい場合です。つまりどうにもほめようがないということです。ただし、この場合はほめないというよりは相手の言っていることが分からないから、結果としては無視をするということかもしれません。

ネイティブスピーカーはほめないということを言う人の心理を私なりに推測すれば、「めったにほめることをしないネイティブスピーカーが私のことをこんなにほめている。もしかしたら私は語学の天才かも。」ということを他人に吹聴したいのかもしれません。まあ、語学の天才かどうかなんて証明の手段がありませんから、言ったもの勝ちです。

しかし、自分が外国語を修得しようとする場合は、教師のような訓練をしていないネイティブスピーカーは簡単にほめるということを知っておいた方が良いでしょう。そうでないと間違って上達したと思い込む(まあ、うまくなったと信じることは学習のモチベーションの維持には有効かもしれませんが)ことになりかねません。

ネイティブスピーカーは非ネイティブスピーカーをほめないということを言う人は語学の修得がどのようなものであるかについて無知なのです。そして、その原因はおそらく上に掲げたことによるのです。
posted by 杉田伸樹 at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

Paul Harvey

アメリカの伝説的ラジオコメンテーターのポール・ハービーが90歳(!)でなくなりました。
http://www.abcrn.com/harvey/

彼のNews and commentとThe rest of the storyという番組はアメリカではABC系列で放送されていました。日本では在日米軍関係者向けのAFNで聞くことができます。

私がポール・ハービーの番組を聞くようになったのは実は最近です。朝、子供を車で送っていくときにラジオをつけると聞こえてくる特徴的な話し方、よく響く声に興味を持ち、調べてみるとアメリカではほとんど伝説になっている人だと知りました。

内容的には保守系ですが、そんな単純な色分けより、彼の番組にはアメリカの伝統的価値の尊重というのが根底にあったような気がします。

彼の死に対してはブッシュ前大統領をはじめ、さまざまな有名人がコメントをしています。また、アメリカのマスコミでも大きく取り上げられています。ただ、日本ではほとんど知られていないので、新聞などの訃報欄でも見かけませんでした。そういう意味では本当の意味でのAmerican institutionなのかもしれません。アメリカの有名人でもグローバルに知られていないと成り立っていかないというのが今の時代だとすると、ポール・ハービーは古き良き時代のアメリカの象徴なのかもしれません。

ゆったりとアメリカの雰囲気に浸りたいときには彼の声を聞くことをおすすめします。それにしても、死のほんの少し前(私の記憶に間違いがなければ一週間程度前)まで現役でいたというのは大変なことですね。

(追記)ポール・ハービーのことを書いてあるブログを見つけました。
http://www.afnfan.net/archives/2009/03/paul_harvey-passes-away.html#more

もちろん、ポール・ハーヴィー氏に会ったことなんて無いんだが、毎日のようにあの親しみ深い声と特徴のある声を聞いていたら、やっぱり情が湧くというか、なんというか、全くの他人には思えないワケですな。


というのは私も同感です。
タグ:Paul Harvey AFN
posted by 杉田伸樹 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月06日

出藍の誉れ

外国語を学ぶということ(というより物事を学習するということ全般)は、当然のことですが、最終的な責任は学習者にあります。物事の判断が十分にできない子供なら別ですが、例えば日本で英語を学習し始める中学生なら、もう自分の学習に責任を持たせて良いはずです。

もちろん、学習の過程で道筋をつけてくれるのが教師やコーチで、そのガイダンスの質の良否は学習の効率に影響を及ぼします。ある分野でそれなりのレベルに達した人がそれまでの学習の課程を振り返っている場合、多くの場合、良質のガイダンスを得たことを誇らしさ半分、うれしさ半分に書いてあります。これは何も学習者が自慢をしているわけではありません。こうした質の良いガイダンスを得ることがいかに大事であるかということを、経験を引き合いに述べているのです。

残念ながらこのような経験をされなかった人でも「われ以外みな師」という言葉を考えれば、誰からも学ぶことはあるもので、それができないのは自立した学習ができない人間なのでしょう。

教師やコーチの側から見ると、一番大事なことは「弟子が自分を超える」ことです。「出藍の誉れ」というのは弟子の側から見た言葉なのではなく師匠から見るもので、逆説的に言えば、自分を超える弟子を生み出せなかったら師匠としては失敗なのです。すなわち、自分の属する分野で自分を超える弟子が出なかったら、師匠としてはその分野の発展への貢献はゼロ以下なのです。

学問における師弟関係とはこのように考えるべきでしょう。それをあたかも弟子が追いつけないように師匠がしていると考える(これまでにそのような師弟関係しか持てなかったとすれば気の毒なことですが)なら、180度間違っています。そうした考え方をしている人間は自立した学習者とはなり得ず、ましてや師匠としては一番不適なのです。
posted by 杉田伸樹 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

プロの仕事(2)

前回の記事に引き続き、プロの仕事とはどのようなものかです。

5.プロは自分の限界を知っている
プロは自分のやっていることが分かっていますので、滅多なことではその限界を超えることをしません。自分の「理論」や「メソッド」に溺れて、何でもそれで解釈、解決できると思うことほどプロとして恥ずかしいことはないからです。
「目利き」としての能力、そしてそれに対する「評判」を危険にさらすような行為はプロはやりません。

6.プロはサポーサーを選ぶ
人間誰しもほめられればうれしいものです。豚もおだてりゃ木に登るって言います。ほめてくれれば、どんな人だってうれしいし、それが社会的に影響力がある人によるものだったら喉から手が出るほど欲しいと思うのも当然でしょう。
しかし、プロはほめ言葉をもらうことに慎重です。前回書いた通り、プロの仕事の評価は仲間のプロによるものが最も大事だからです。的外れな称賛は的外れな批判よりたちが悪く怖いのです。
反対側から見れば、よく知らない分野のことで、知ったかぶりで安易にほめ言葉を使う人間はプロではありません。間違っているかもしれないことに安易に加担するという意味で、デタラメを言っている人間より罪が重いとさえ言えるのです。

7.プロは批判を大事にする
これも前回書いた通り、プロにとって最も恐れることは「相手にされない」ことです。論理が通じない人間だと見なされることはプロの社会では存在しないと同じです。これに比べれば批判されることは少なくとも相手にされているのでプロはこれを大事にします。
批判されることは誰でもいい気持ちはしません。しかし、批判を受けたときの対応こそプロとしての力を試されているので、プロの仲間はそれを見ています。批判されること自体がプロの間で問題になることは滅多にありません。
批判に対して子供のように逆切れしたり、果ては何とかして批判そのものやその痕跡を消し去ろうとすることはそれだけでプロとしての人格を否定する行為になります。
もちろん、まったく的外れな批判に対しては無視することもあります。当然のことですが、プロの間では批判の正否も判断されているのです。

8.プロは最低限の仁義は維持する
プロはどんなに厳しい状況でも、最低限の仁義は維持します。どんなことかといえば、「他人の言っていることを間違えずに引用する」とか「相手の質問に誠実に答える」とか「普通に使われている言葉の意味を勝手に自分で変えない」とか言ったことです。
こうしたことができない人間は、まさしく論理が通じないと見なされるのでプロの世界からは相手にされなくなります。それどころか、普通の社会でも相手にされなくなることでしょう。
posted by 杉田伸樹 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月10日

プロの仕事

どんな仕事でもプロがいます。プロとそうでないものの違いは、端的に言えば「金をとれるか」ということでしょう。かなり前にこのブログで、「外国語学習の最大のライバルはお金だ」と書きました。これはまさにプロの仕事について書いたものです。

プロの仕事とはどのようなものでしょう。私が思うに次のような特徴を持っています。

1. プロの仕事は命や金がかかっている時に必要
にせ医者に大事な手術をさせないのは当然ですし、間違って刑務所に入れられないようにするためにはちゃんとした弁護士が必要です。どうでも良いことなら、誰だってできます。

2. プロは間違ったことを言わない
やるべきことができればどんなことを言っても良いとはプロは考えません。やっていることだけでなく、言うことの正しさでも評価されるからです。
「フグの毒があるのは肝臓だけで、それだけとれば大丈夫」と言うフグ調理師を信用できますか。たとえこれまで大丈夫だったとしても、こんなことを言っているということだけでクビでしょう。
あるいは「ニュートンの運動方程式はf=maではなくてf=m/aだ」と言うエンジニアが設計した飛行機に乗る気がしますか。こうした間違いを平気で言ってしまうような人間はプロとは言えません。

3. プロの仕事の評価はプロがする
一般的に、評価というものは、対象に関する知識がある場合の方が辛くなります。だから、特定の分野での仕事のレベルを保つための方法として、仕事の評価は同じ分野のプロが行うというピア・レビューがとられます。評価をする方も、的外れな評価をすればそれだけで評判は落ちるので真剣です。特に、個人的な事情が絡んでの甘い評価や、知ったかぶりでの評価をしたりすれば、即座に信用を失います。評価者が被評価者と個人的な関係があるということを言うだけでも評価の信頼性は失われます。プロとして当然心得えていなければなりません。
一方、その分野であまり知識がない場合には「自信を持って批判する」ということができません。「その批判は間違っている」と逆襲されたときの反論が用意できないからです。反対に言えば、素人にも自信を持って批判されるようならば、よっぽど出来が悪いと考えた方が良いでしょう。

4. プロの評価は3段階
評価に対するプロの態度は、大きく区切れば3段階です。もっとも厳しいのは「相手にしない」でしょう。そのことに触れるだけでも見識を疑われるようなものは放置です。少しでも評価する点があれば「批判」でしょう。もちろん、評価される側が少しでも理性的ならばですが。
気を付けないといけないのは「批判」は「相手にしない」よりは、少なくとも評価の対象になるという点では良いことです。批判をされたといって逆切れする人はよくいますが、相手にされるだけましだと思うべきでしょう。また、批判がないからといってそれが認められているということにはならないという理解も大事です。
プロとしての職業倫理に恥じないとなって初めて「ほめる」ことが可能となるのです。
posted by 杉田伸樹 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月09日

苦労しているのは日本語話者だけじゃない

外国語を学習するという行為は何も日本語話者が英語を学ぶだけではありません。言語の数がNなら、外国語を学ぶ組み合わせはN*(N-1)だけあります。

このような組み合わせで、難易はどのように決まるのでしょうか。白井恭弘『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』(岩波新書)という本を読むと、両言語によりさまざまなようです。

これを具体的に見るには、いろいろな言語の話者が共通した一つの言語を学ぶ際の困難の違いや、反対に共通した一つの言語の話者がいろいろな言語を学ぶ際の困難のパターンが分かると役に立ちます。

外国語を学ぶことは発音だけではありませんが、分かりやすい例として発音について調べたものをネット上でいくつか見つけました。

Ship or Sheep? Third Edition, Likely errors
http://www.cambridge.org/elt/shiporsheep/likelyerrors.htm

これはイギリス英語発音の初級テキストである『Ship or Sheep』という本の関連サイトです。いろいろな言語(25あります)の話者が英語の発音をする場合の問題点の分析をしています。

Non-native pronunciations of English, Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Non-native_pronunciations_of_English

これも同様です。言語の数は10で少なめです。

Anglophone pronunciation of foreign languages, Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglophone_pronunciation_of_foreign_languages

こちらは反対に英語話者が他の言語を発音する際の問題点を述べています。

これら全部が妥当であるかどうかを判断することは、私はできません。知識のない言語もたくさんあるからです。

それでも、これらを見ていると、外国語を学習する際の困難の多様性が分かります。また、特に大事だと思うのは、外国語の学習が難しいのは何も日本語話者だけではないという事実です。

そんなこと当然じゃないか、と思ったあなた!健全な判断力の持ち主です。

世にあるトンデモ外国語学習法では「英語ができないのは日本人だけ」といった何の根拠もない脅しをしたり、「欧米言語は発音は同じ(だからヨーロッパ人は英語ができる)」といったこれまたデタラメを言うことが好きなようです。

おそらく自分が話すことが通じなかったことを根拠なしに勝手に日本人全体に広げたり、あるいは自分の無知とコンプレックスからでっち上げた分類にもとづく「理論」に自ら溺れているのでしょう。

事実にもとづく観察は正しい考え方の基本です。外国語学習でも同様です。外国語を学ぶことは複雑なプロセスです。それはここであげたサイトにでているパターンを見るだけで理解できます。そうした現実を無視した「理論」や「メソッド」はすぐに化けの皮がはがれるのです。
posted by 杉田伸樹 at 00:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

外国語学習オレオレ詐欺

前に書いた記事で、外国語学習の詐欺のことを書きました。

詐欺といえばオレオレ詐欺(最近は振り込め詐欺か)。やっぱりそうですね。それで、私がこのところずっと考えていたのは、外国語学習でもやっぱり詐欺の一番はオレオレ詐欺だということです。

「オレ」は昔はもてなかったけど「オレ」が見つけたこの方法を使ったら「オレ」はもてるようになった!「オレ」ができたんだから、「オレ」以外の誰でも「オレ」が発見して「オレ」が教える方法でできるようになる!「オレ」の言ってることだから間違いはない!「オレ」はいつから神になった!

まあ、「オレオレ」とうるさいこと。でも、まともな人はこんなに「オレオレ」言われたら、それだけでも詐欺だと思っちゃいますね。人をだますのももう少しうまくやらないと相手にしてもらえないですね。
posted by 杉田伸樹 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月07日

ネイティブスピーカー(2)

(今回の記事は、分かりにくくもなく皮肉も入っていません。これは私の文章技術の制約によるものですが、今回のテーマに合ったスタイルだとも思いますのでご寛恕のほどよろしくお願いいたします。)

外国語の学習で「ネイティブスピーカー」という言葉が横行していることは、すでに書きました。特に、トンデモ学習法ではオンパレードと言って良い状態だと思います。トンデモ学習法はその他に「100パーセント」といった詐欺師が使うような表現を多用していることも特徴としてあげられます。今回は「ネイティブスピーカー」という単語について、さらに詳しく考えてみることにします。

1. 「ネイティブスピーカーになれる」というのは詐欺である

「ネイティブスピーカー」という言葉の定義をもう一度確認してみると、「その言葉を物心ついた時から日常で使って覚えた者」ということだと思われます。そうだとすれば、すでに別の言葉だけを覚えて生活している者は「定義上」ネイティブスピーカーになることは不可能です(時間を元に戻すことができるなら別ですが)。

不可能なことを可能だというのは、世の中の一般的な言い方では「詐欺」です。このように言っている人は「詐欺師」ですし、「あなたはネイティブスピーカーになれました」と言われて喜んでいるのは、詐欺の片棒を担いでいるか「私は詐欺師に騙されました」と首から看板をかけて町中を歩いているようなものです。

これが例えば「これだけやればゴルフでタイガーウッズに勝てます」と言うのだったら、もしかしたら可能性があるかもしれません。定義上不可能ということはないからです。でも、普通このように言う人はいないでしょうし、詐欺だと言って裁判に持ち込まれたらおそらく負けるでしょう。常識的に見て不可能だからです。

「ネイティブスピーカーになれる」というのはもっと強い命題で、それは定義上不可能なのですから、裁判に持ち込まれたら間違いなく負けます(誰もそんなことを裁判に持っていくほどひまじゃないですから誰もやりませんけど)。詐欺に対する第一の備えは「近づかないこと」ですので、「ネイティブスピーカーになれる」という表現を見たら無視することが一番です。

2. 「ネイティブスピーカー」もいろいろである

生まれたときからその言葉を使ってきたといっても、各人の育つ環境はさまざまですし、実際、使う言葉も違ってきます。同じ言語、例えば英語といっても使う人の生物的、地域的、社会的な背景その他によっていろいろな違いがあります

言葉を使うということは、その背後に必ず「抽象化」の過程があります。例えば、単語の意味ということだけ考えても、「猫」は、そこにいる三毛猫、あそこにいるペルシャ猫、・・・といったものを含んでいます。だから、一つの単語を使うことの裏に、こうした具体のものすべてと矛盾を起こさないにするという人間の知性の働きがあります。

「ネイティブスピーカー」という言葉も同様に考えなければなりません。その定義に当てはまる人間の数は、もちろん何の言語かによりますが、当然一人ではありませんし、メジャーな言語だったら何千万、何億というものになるでしょう。

もちろん、この多様性のすべてを説明するルールを見つけることはおそらく不可能ですし、そのようにする必要もありません。多くの場合に適用可能な法則(明示的なものである必要はない)ができれば、実用的には十分です。

例えばいくつかの言語では「標準語」や「共通語」といったものがあります。これらは、その動機はさまざまですが、いずれにせよ、その言語の使い手の持つ多様性を狭める効果を持ちます。これはある意味での「抽象化」といっても良いでしょう。

別の例では、英語の発音で基準とされているものがあります。イギリス英語ではReceived Pronunciation (RP)ないしBBC Englishと言われているものですし、アメリカ英語ではGeneral Americanと言われているものです。これらは、ある一人の話し手の発音では当然なく、出身や社会的環境などによる差異を考慮した上で抽象化された話し方の基準と言えるでしょう。もちろん、そうした抽象化(概念設定)は、現実にいる多くの話者の発音の変異の幅や傾向を見極めた上での最大公約数的なものを採用するという方法がとられます。ですから、そうした分析をきちんとしないで「抽象化」をすることは、まったくデタラメなものを作り上げていることになります。

言葉をちゃんと使うというのは、ここであげた単語の意味というレベルで見るだけでも、抽象化の方法論と背後にある多くの事例への理解が欠かせないものなのです。これができていないものは科学(よく言われる理科系と文科系といった区別にかかわりなく)として認められないオカルトと言ってよいものなのです。

3. 「ネイティブスピーカー」という言葉に潜む偏見

これまでの議論は基本的にどの言葉についても適用可能なものでしたが、ここで英語の場合について少し詳しく見てみることにします。当然のことながら、日本人が学ぶ外国語は圧倒的に英語が多いわけですし、実際、英語さえ知っていれば世界中の多くの場所で何とか用を足せるようになるという状況があるのは確かです。

学ぶ需要が多ければ、それにつれて供給が増えるのも当然で、英語に関する学習教材の数は他の言語のそれを圧倒しています。そうした中、発音の教材で「ネイティブスピーカー」を売り文句にしているものが目立つのも英語教材の特徴のように思われます。

こうした教材をすべて見たわけではないですが(それほどたくさんある)、多くの場合、アメリカの英語、ほんの少しがイギリス英語をベースにしているようです。

こうした状態は、現在の日本人の英語のニーズや利用可能な英語の材料の量からしても当然といえば当然なのでしょう。まあ、私の個人的な趣味から言えば雑誌ではEconomist、放送ではBBC、新聞ではStraights Timesなんかも面白いから試してみてはどうかと思いますけどね。

いずれにしても、「ネイティブスピーカー」を標榜する英語教材が、南アフリカ人やインド人、シンガポール人(いずれも生まれたときから英語だけの環境ではないものの、英語を使う環境で育っている)のことを取り上げているものはほとんどないと言えるでしょう。

確かにアメリカ人が使う英語をまねして覚えれば、おそらく「英語を使う環境」ならどこでも用を足すことはできるでしょう。でも、それだったらば他の英語だって大きな違いはありません。こうしたことを考えずにアメリカ人の発音だけ(それも、実は自分の手近にいる人間の発音だけといった代表性も疑わしいものだったりする)をあたかもネイティブスピーカー全体のものとするようなことは意味のない偏見を暴露していることにほかなりません。

細かな発音の違いを気にするのは、例えばコールセンターでインド訛りやフィリピン訛りの英語が聞こえると問題がある(要領を得ない回答をするといったことの方がもっと問題だと私は思いますが)といった瑣末なシチュエーションでしかありません(といっても、いわゆるaccent reductionを指導している機関の大きな仕事はこうしたコールセンターの従業員のトレーニングのようです)。

普通のまともな人間は、相手が話していることがちゃんとしているかを判断するのに労力を使うので、細かな訛りなど気にしていられないというのが実情です。この点を理解できないと、相手に聞き返される理由が実はこちらが話している内容がデタラメなためなのに、発音が問題なのだと思ってしまうような恥ずかしいことをしてしまいます。

瑣末な訛りを取り上げてさも大きな問題のように言い立てるネイティブスピーカーは私の見るところ三流の人間しかいません。その尻馬に乗って、外国語として英語を学ぶ側が「ネイティブスピーカーそっくり」が偉いと思ったりすることは醜悪かつ滑稽としか言いようがありません。

4. 発音だけが問題か

よく知られているように、外国語を運用するための能力は「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つからなっています(最後の2つは書記のシステムがある場合)。これらは互いに関連していますから、当然のことながら学ぶ場合には総合的に関連させなければ効果の上がる学習とはなりません。

ところが「ネイティブスピーカー」を押し立てている多くの教材の関心は「話す」ことに集中しています。「スピーカー」ということに言葉に引きずられているのでしょうか。

もちろん「話す」ことは言語活動で主要なことですし、外国語として学ぶ場合には意味が通じるような発音をすることはきわめて重要です。しかし、言語活動はそれだけではありません。

私の感じるところ、外国語として言語を学ぶとき、もっとも難しいのは「書く」ことです。日本語を学んできたことを思い出せば、それは納得がいくことだと思います。ある程度のまとまった内容を論理的に組み立てながら文章にしていくことは、自然に身につく技術ではなく、しかるべき教育や訓練が必要です。さらに専門的な文章(例えば法律家が書くようなものを考えてください)を書くには、専門的な訓練がないと不可能です。

これは外国語を学ぶものにとってはきわめて高い目標といえます。実際、私の経験でも利害が異なる参加者の間で外国語で議論をしながら、合意できるような文書を作成していくというのはきわめて困難な作業です。そして、そのような場では、ネイティブスピーカーの持つ文章を作る力(これはもちろんそれまでの教育や実務経験により形成されてきたものです)に太刀打ちすることは大変で、議論がしゃべるだけだったらはるかに易しいとさえいえます。

それでも、外国語を学ぶ者はそうした場で役立つことを目標としなければなりません。そのためには、外国語の4つの技能すべてを向上させる必要があります。それだけでなく、専門的知識や、最終的には人としてもてる力すべてを動員していかなければなりません。それに比べたら「ネイティブスピーカーそっくりに話す」なんて、きわめてレベルの低い目標なのです。
posted by 杉田伸樹 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月19日

外国語トンデモ学習法(その3)

ずいぶん間が空いてしまいましたが、これは研究に余念がなかったからです。そして、考える時間があった成果がありました。外国語トンデモ学習法に関しての新たな発見です。それは、トンデモ学習法の「理論」は強力な論理で証明されているです。

すでに前に書いた記事で、外国語トンデモ学習法では「理論」が大事であることを見ました。そうです、何がなくとも立派な「理論」がなくては始まりません。すばらしいことです。

しかし、世の中、トンデモ学習法を支持する立派な人たちばかりではありません。バカな反トンデモ学習法主義者はいつの時代、どこにもいて(天動説の例をあげるまでもなく)、トンデモ学習法の意義や正しさを理解できずに、「その『理論』が正しいという証明があるの?」とか「その『理論』じゃ現実を説明できてないんじゃないの?」などと不遜にも聞いてきます。

まあ、こんなバカは放っておくのが世のため、人のためですが、心優しいトンデモ学習法の作者は、どんなにつまらぬ、間違ったことでもきちんと訂正してあげないとバカが広がってしまうことをおそれて、たいていの場合、まじめに対応してしまいます。場合によっては、自分を実験台にさらすといった人類愛と科学の進歩に対する貢献心なくしてはできないような方法をとります。そして、自分がやって見せ、みんなもやっていることだといって証明します。

いってみれば、逆立ちをして歩いて見せて、「ほら、世の中の人はみんな逆立ちして歩いてるんですよ」というような、きわめて斬新かつ強力な論理によって証明しているのです。

いやあ、こんな強力な論理の進め方があったことに気がつかなかったなんて、私はなんと迂闊だったんでしょう。このすばらしさを知ったとき、私は体に震えがきました。

ただ、残念ながら、逆立ち歩きもほんの数メートルいったところで倒れてしまうことが多いように見えます。どうせなら、グラウンドの端から端まで逆立ちで歩いて見せて(体育大学の学生ならその位のことはできます)、二足歩行なんてぶざまな姿は人に見せないくらいのことはして欲しかったなと思います。

いずれにしても強力な論理で証明されたトンデモ学習法の「理論」は間違いようがありません。この正しさを疑うのはバカとしか言いようがないでしょう。

*****
でも、あなたは「ニュートンの運動方程式はf=maではなくてf=ma2だ」と言っているようなエンジニアが設計した飛行機に乗る気がしますか?
posted by 杉田伸樹 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月14日

外国語トンデモ学習法(その2)

私の趣味は外国語トンデモ学習法の研究だということは、前に書きました。トンデモ学習法に共通した傾向を見つけていますが、さらなる研究の成果をここに公開します!

トンデモ学習法には頻出する「決まり文句」があることを発見しました。

1.「これさえやれば」
もちろん、学習の効果を最大にするためには、他の学習法を併用するなんて無駄の一言です。これだけに集中することが大事です。

2.「100%」
もちろん、効果に1%でも疑いがあったら勧めたりしません。絶対確実。Guaranteed to work, or your money back.(って言っているかどうか知りませんが。)

3.「ネイティブ・スピーカーと同じに」
もちろん、外国語学習の究極の目的はこれしかありません。文法なんてどうでも良いんです。言っている中身なんか分からなくたって良いんです。

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かつて、物理学者のスティーヴン・W・ホーキングは著書「ホーキング、宇宙を語る」で次のように述べています。

この本の中に数式を一つ入れるたびに、売れ行きは半減すると教えてくれた人がいる。そこで、数式はいっさい入れまい、と決心した。しかし、とうとう一つだけは入れることになってしまった。アインシュタインの有名な式 E=mc2 である。この式が私の本の潜在的な読者をおびえさせ、半分に減らさないことを願っている。


外国語トンデモ学習法の作者は外国語学習者への愛情からトンデモ学習法を発表しているのではないか、というのが私の直感なんですが、上記のような「決まり文句」を使うことは、ホーキングの本の中に式をどんどん入れるような効果を持っているのではないかと密かに心配しています。

つまり、決まり文句を使うことにより潜在的なトンデモ学習法のユーザーを多数取り逃しているのではないかと推測します。これはまことに残念なことなのではないでしょうか。トンデモ学習法の恩恵を受けられる可能性のある人が、上記のような決まり文句を見ておびえてしまい、それ以上使うことをあきらめてしまいます。

これは大変な社会的損失ではないでしょうか。外国語トンデモ学習法の作者の皆さん、「決まり文句」を使うのはやめましょう。

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これさえやれば、100%、まともな外国語学習法と同じになりますよ。
posted by 杉田伸樹 at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月22日

外国語トンデモ学習法

実をいうと私の趣味は外国語トンデモ学習法の研究だったりします。外国語の勉強を始めて苦節40余年、トンデモ学習法もいろいろ見てきました。これに関する研究成果をここに大公開!

トンデモ学習法には次にあげる特徴が見られることが朧げながら分かってきました。

1. 英語に関するものがほとんど

どうやら英語はトンデモ学習法の宝庫のようです。これが英語の特性によるものなのか、あるいはヨーロッパ言語だけの特徴なのかは不明です。最近の私の研究によれば、スペイン語は同じヨーロッパ言語ではありますが、出現頻度はずっと低いようです。一方、韓国語では増えつつあることが観測されています。こうしてみると、ヨーロッパ言語だけの特徴であるとか、全世界で日本語と韓国語だけが他の言語と際立って違うということは、ことトンデモ学習法に関しては証明されないようです。

グアラニ語でのトンデモ学習法を見つけた方がいらっしゃいましたらぜひお知らせ下さい。貴重な研究対象になりますので。

2. 発音に関するものがほとんど

どうやら言語活動は発音に集約されるようです。ここでのキーワードは「ネイティブ・スピーカーのように」で、これこそが殺し文句、キラー・コンテンツです。ネイティブ・スピーカーって実在の人物かどうか分からないですが、居たとしたら次なるはテープレコーダーの出番じゃないでしょうか。

スペイン語の縮小辞がネイティブ・スピーカーの地理的差異にどのように影響を受けるかについてトンデモ学習法があると助かるんですがどうですかね。

3. 理論があるものがほとんど

どうやらトンデモ学習法の恩恵をフルに享受するには、難しい理論を理解しないといけないようです。まずはこの壁を突破しないことには何をやってもだめなようです。うう、何でこんなに人を寄せつけないようにしているのだろう。せっかくのトンデモ学習法なんだから、なるべく多くの人に理解してもらうようにした方が良いと思うんだけど。

理論はいいから結果を生むための道筋を教えてください。

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以上、書いたところでハッと気がついたのですが、トンデモ学習法の作者は学習者への愛情から上のような方法をとっているのではないかと。

考えてみれば、英語こそ世界で一番通じる言語なんだから、恩恵を受ける人も多いはずで、ナバホ語やヨルバ語なんかで満足していてはいけないということで、全くもって尤もなことです。人間、大乗的な愛情でものごとに当たらないといけません。

発音のことだけを言うのだってそうです。いるかいないか分かりませんがネイティブ・スピーカーのように発音できれば、その他の問題はすべて解決!というのは自明なことなのです。

それに理論が難しいというのは誤解で、その程度の理解もできないんだったら(理論の内容に賛成かどうかなんて関係ない)絶対、外国語なんて身につく訳ないんです。カラオケをやるには対位法、ゴルフをやるには特殊相対論が分かってなければ絶対うまくなれません。

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なお、本記事は「英語がネイティブ・スピーカーのように話せる理論」を標榜しているものがすべてトンデモ学習法であることを主張するものではありません。あくまで、これまでの私の経験による大まかな近似です。また、「ダリー語における丁寧表現の身につけ方」といったものが(これは仮の例です。もし実際にそのような学習法があったとしても、それは偶然の一致です。)トンデモ学習法ではないことを保証するものでもないことをお断りします。
posted by 杉田伸樹 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月06日

ネイティブ・スピーカー

一部の人にとってはネイティブ・スピーカーのように話したいというのは外国語を学習する際の結構大きな目標のようです。まあ、外国語を学ぶ目的は人それぞれですから文句をつける話でもありません。

ただ、この目標はきちんと定義されたものかについては、よくよく吟味しないと本当に目標たりえるのかは不明になります。

まず「ネイティブ・スピーカー」とは何か。生まれてこの方、その言語を使って生活している人が一応の定義でしょう。でも、学習の目標とするのだったらこれだけでは不十分です。話し方だけでも、地域的、個人的、シチュエーション的に違いがあるのは当然だからです。

「ネイティブ・スピーカーのように話す」と言っている内容が、もしかしたら隣のお兄ちゃんと他愛ない話ができる(でも、他の地域からきた人と専門的な話はできない)、と言った程度のことなのかもしれません。定義をあいまいにしたままの議論は詭弁の一番の特徴であると言えます。

どうせだったら、もっと具体的な目標を掲げたらどうでしょうか。「ガルシア=マルケスのように書き(セルバンテスでも良いですが)、ドン・フランシスコ(*)のようにしゃべり(アントニオ・バンデラスでも良いですが)、歌って踊ればシャキーラ!」となれる学習法があれば私は全財産賭けますけどね。

(*)マイアミより南にいるんだったらこの名前を知らなければもぐりです。
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2007年05月05日

外国語の練習は五感を使って

外国語を修得するのは、考える訓練だけではありません。読む・聞く・話す・書くという人間の実際の肉体を使った行動が伴います。

だから、人間の感覚を総動員して練習することが効果的です。「五感を使って」というのはそういう意味です。鼻が外国語の修得にどのように役立つかは知りませんが(笑)。

正確なことは生理学や認知科学の知見を利用しないと分かりませんが、私の経験では、ものを覚える時は一つの感覚だけでなく、複数の感覚を利用した方が効果的ですし、飽きも少ないようです。

外国語の修得で「これさえやれば万能」と宣伝している方法は、悪く言えば詐欺、良く言っても誇大妄想であるのは、外国語の修得が人間の感覚すべてに関わるものであることを考えれば当然なのです。
posted by 杉田伸樹 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語練習いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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